聖書のみことば
2022年6月
  6月5日 6月12日 6月19日 6月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

6月5日主日礼拝音声

 聖霊降臨(ペンテコステ)
2022年ペンテコステ主日礼拝 6月5日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第2章1〜13節

<1節>五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、<2節>突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。<3節>そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。<4節>すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。<5節>さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、<6節>この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。<7節>人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。<8節>どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。<9節>わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、<10節>フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、<11節>ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」<12節>人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。<13節>しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 ただいま、使徒言行録2章1節から13節までをご一緒にお聞きしました。
 毎年ペンテコステの日曜日にはこの箇所が読まれます。けれども、この箇所は何度読んでも毎回不思議に思わされる箇所だと思います。何かが起こったらしいということは分かるのですが、しかしそれが実際にどういうことであったのかはよく分かりません。しかしそれでも、一つ明らかなことがあります。ここでは、もう二度と止まることのない新しい動きが始まったということです。ペンテコステの出来事は、その日その場に居合わせた人たちに強い印象を与えただけではありません。そこからさらに広がって、世界中に、そしてまた時代を超えて、深い影響を与えていくのです。
 9節から11節にかけて、多くの地名が出てきます。「パルティア、メディア、エラム、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方、クレタ、アラビア」、これは誰かがペンテコステに居合わせた人たちに取材をして、その出身地を克明に調べ上げて記したリストというようなものではありません。そうではなくて、これらの地名は、当時の世界地図の上に探して印をつけていくと分かりますが、エルサレムを囲むようにして東西南北に広がっていた当時の世界を表しています。
 ということは、この日ここには、北から南から東から西から、世界中から人々が来ていて、この出来事の証人となり、この出来事と関わりを持つようにされたのだと言われているのです。ペンテコステの出来事は、ごく一部の限られたサークルの中の出来事ではありません。世界中の人々、全人類に関わっていく出来事として起こったのだということを、聖書はこういう言い方で表しています。

 よく教会学校でお話をする時には、「ペンテコステは、教会が地上に生まれたお誕生日です」というような言い方をします。確かにその通りですが、しかし「ペンテコステに教会が生まれた」というのは、実際にはどういうことなのでしょうか。私たちの多くが「教会」という言葉を聞いてまず思い浮かべるのは、おそらく、「十字架がついた建物」だろうと思います。しかし当たり前のことながら、ペンテコステの日には、まだ建物としての教会堂はどこにも存在していませんでした。
ある人は、「教会」という言葉で、今ここで私たちが捧げている「礼拝」を思い浮かべるかもしれません。教会は建物ではなく、「主を礼拝する人たちの群れ」とよく言われます。しかしそれならば、最初のペンテコステの日に今日のような礼拝順序が整っていて、説教者や司式者や奏楽者が与えられた礼拝が行われていたかと考えてみますと、私たちが慣れ親しんでいるような形での礼拝順序、礼拝の秩序、あるいは諸々の行事のようなものが行われていたとは考えられません。
 またあるいは、「教会は、ただお一人の主イエス・キリストを救い主と言い表して信仰を同じくする人たちの集いである」と考える方がおられるかもしれません。私たちは、今日は「日本基督教団信仰告白」を告白し、また普段の日曜日には「使徒信条」で信仰を言い表していますが、しかし、このような信仰告白の文言が定まったのも教会が誕生してから後のことです。

 それでは、「最初のペンテコステの日に教会が誕生した」というのは一体どういうことなのでしょうか。何を指して教会が生まれたと言われているのでしょうか。一言でいえばそれは、「私たちが日々暮らしている日常生活のただ中に、神さまが聖霊を通して突然踏み込んで来られた」ということです。「突如として、神の側からこの世界に生きている私たち人間に向かっての突入が生じた」、それが最初のペンテコステの日に起こったことです。

 今日の箇所を聞いていて気づかされるのは、この日の出来事に遭遇した人々が誰も彼もびっくり仰天しているという姿ではないでしょうか。6節には「だれもかれも、あっけにとられてしまった」、7節では「人々は驚き怪しんだ」、そして12節では「人々は皆驚き、とまどった」と言われています。ここに語られているのは、最初のペンテコステの日に人々をとらえた激しい驚きです。神が突然自分たちの生活の只中に突入して来られた、その出来事から波紋がずっと広がっていくのです。池の真ん中に石を投げ込んだ時のように、神との出会い、神との交わりを経験した人たちが驚きとショックを持ってそれを受け止めながら、次第にそれが広がっていきます。今まで誰も思いもしなかったようなことが、ペンテコステの時に起こったのです。
 神が聖霊を通して私たち人間に出会ってくださり働きかけてくださる時、神が私たちのもとに突入して来られる時には、いつでも深いところで私たち自身の魂が揺さぶられます。そして私たちは、自分自身のあり方を深く反省させられます。自分個人としての振る舞い方だけではなく、お互い同士のあり方ということについても、また他の人たちや時代の様々に起こっている問題についても、私たちは深く揺さぶられ、そして一つ一つのことを反省させられるのです。

 神が私たちの人生の只中に踏み込んで来られると、例えば、私たちが今まで安直に歩んで来た歩みに対して、「果たしてこれで良いのだろうか」という問いが生まれます。これまではあまり深く考えることもなく、重い責任などはなるべく避けて無難に安楽に人生を過ごせたならと簡単に考えていたものが、「本当にそれでよいのだろうか」という問い返しが起こるかもしれません。あるいは、人生とは何事につけ自分の願いや思いが実現できることが素敵なことで、自己実現できることが良い人生だと思ってきたのに、「果たして本当に、自分の思いが実現することが正しいことなのだろうか」という問いが湧いてくるかもしれません。また「君子危うきに近寄らず」で、身の安全を図っていればそれが何にも勝ると思ってきたのに、「さてしかし、身を安全に保った上で、わたしは一体何のために生きるのだろうか」という問いが生まれてくるかもしれません。「わたしは自分自身のために生きるのだろうか。わたしは、わたしに命を与えてくださり日々の生活を支えてくださる神さまの前に生かされているのではないか。そうであれば、わたしはただ自分の身が安全だということを喜んでいるだけでよいのだろうか」、そういう思いが芽生えて、これまでの自分中心なあり方が根底から揺さぶられるようなことが起こるのです。

 さらに、神が踏み込んで来られると、私たち人間同士の交わりの在り方についても問いが生まれてくるような気がします。全く新しい交わりがそこに始まると言ってもよいと思うのです。神が踏み込んで来られる前は、私たち人間同士の交わりは、お互い同士の関係しかありません。自分と隣の人は気が合うか合わないか、話をしていて同じような感想を持ち打ち解けることができるかできないか、そういうことが多くの人間関係の中心的な関心です。自分と話が合えば「良い人」、話が合わなくてどうもウマが合わなければ「悪い人」と、心の中で相手にレッテルを貼り付け、色分けしながら注意深く付き合ったりするということが、どなたにもあるのではないでしょうか。
 ところが神が踏み込んで来られると、今まで敵だと思っていた相手が、実は敵ではなくなるという不思議なことが起こります。確かに依然として険悪な空気があるかもしれません。なかなか解り合うことは難しいかもしれませんが、それでも、もうその相手は自分と無関係な人、敵だというのではなくて、「神さまがこの人をも愛しておられるのだ」という新しい理解が生まれるようになるのです。以前は敵であった相手が今や敵ではないのだとすれば、従来あった刺々しい間柄というのは、今後は何とかして乗り越えなくてはならない課題となっていきます。もちろんこれはお互い同士の間柄のことですから、どちらか一方だけが努力すれば改善するというものではないかもしれません。お互いが共に心を合わせ、交わりを作ろうという姿勢になるのでなければ、その交わりはなかなか麗しいものにはなっていきません。そのため、神が踏み込んで来られた結果として生まれる愛の関係というのは、時には切なさを伴うということが起こり得ると思います。
 しかし、たとえ切なさを感じるようなことがあるとしても、互いに刺々しかったり無関心だったりするのとは全く違う質の交わりが生まれるということも確かなことなのです。神が踏み込んで来られるところでは、確かに私たち自身の魂と、また私たち自身の在り方が根底から揺さぶられて、新しい命に満たされた有りようが生まれてきます。
 もしも、「信仰生活を長く続けているけれど、自分には神さまと出会うことにおいて何の感動もない」と感じる方がおられるならば、「どうか神さまがわたしをも訪れてくださいますように」と心から祈られるのがよろしいだろうと思います。その祈りは、きっと神に聞き届けられるに違いありません。聖霊が働いて、多くの人が魂を揺さぶられ、呆気にとられたり、驚いたり戸惑ったりすることがあったのだということを、今日の箇所は確かに私たちに語り伝えています。

 ところで、そういう人たちの傍にあって、その様子を冷ややかに、嘲りをもって眺めていた人たちもいたことが並んで書き留められています。13節に「しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」とあります。嘲っている人たちは、その人たち自身がまだ神との交わりを自分自身の身の上に経験していない人たちです。この人たちは、自分自身が神から踏み込まれる、神との交わりを経験するということがなくて、いわば傍観者のように外側から眺めています。そして、最初の教会が地上に誕生している様子、つまり「神さまが踏み込んで来られるという経験した人たちは、神さまとの交わりに非常に戸惑いながらも、しかし大いに喜んで神さまの御支配を自分の中に迎えようとしている」ということがさっぱり理解できません。横で眺めている人たちには、教会の人たちが味わっている誠に大きな喜びが理解できないのです。
 しかし理解できないながらもこの人たちは、自分に合点がいくような答えを見つけたいと願っていて、そして辿り着いた答えが「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」という答えでした。この言葉は嘲りの言葉だと言われていますが、しかし形は嘲りであっても、これは、聖霊がもたらした激しい喜びを間接的に証言しているということになるのではないでしょうか。「合点はいかないけれども、しかしここには確かに何かが起こっている」、そのことを彼らなりに説明しようとすると、「あれは酔っ払っているのだ」という表現になるのです。

 このように、「教会が誕生した時に非常に激しい大きな喜びがあり、皆が戸惑いながらもそのことに動かされ変わり始めていた」ということを聖書から聞かされますと、私たちは、ふと考えさせられるかもしれません。「果たしてわたしの教会生活には、こんなにも激しく強い喜びがあるだろうか」ということです。私たちは毎週礼拝へ招かれていますが、もしかすると私たちの中には、どこかで周りの人たちを気にしながら行儀よく過ごさなければならないという思いがあり、自分の心に兆す喜びや感謝を抑えてしまっているようなところがないでしょうか。礼拝の中ではもちろん、喜びも感謝も大いに表して良いのです。礼拝というのは、そういう喜びや感謝を表すような形を与えられているのだと思います。
 「教会は礼拝する群れではないか」と考えた時に、最初の教会には今日のような礼拝の順序や秩序はありませんでした。けれども今、私たちは、今日私たちが経験しているような礼拝を捧げているわけですから、長い年月の中で、礼拝は、神への喜びや感謝を表すように発達してきているのです。
 礼拝の中では何が起こっているでしょうか。礼拝の中では繰り返し繰り返し、集っている私たちの中から神を讃える賛美の歌声が沸き上がります。私たちは、神が私たちのもとに踏み込んで来てくださり私たちを激しく揺り動かし新しくしてくださることを、神が慈しみをもって私たちに出会ってくださり、「あなたはわたしのもの、わたしが愛する者としてここにいる。ここからも、わたしの愛する者として歩んでよいのだ」と言ってくださることへの感謝と喜びを、讃美の声をあげるということで表していくのです。
 これからも私たちは、神に喜ばされ力を頂きながら、大いに感謝し賛美する者とされたいと願います。讃美歌は1節だけ歌うとか声を出さないとかではなくて、私たちの教会はこのように賛美できる場と機会が与えられているのですから、神を賛美し感謝して生きる、その生活を続けたいと思います。そしてそういう生活の中においてこそ、私たちの有りようや交わりも、「神から与えられた新しい喜びに満ちたもの」として、次第に確かに形作られていくということを覚えたいと思います。

 ところで私たちは、最初のペンテコステの日、初めて聖霊が注がれた時に起こった異常な現象というものが、今日私たちの間でもそのまま同じように起こらなくてはならないと考える必要はありません。かつて主イエスがニコデモに向かって「聖霊の働き方」について教えられた時に、主イエスは言われました。ヨハネによる福音書3章8節に「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかも知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」とあります。聖霊の働き方というのは、風が吹く際の吹き方や通り道のように自由自在なのだと主イエスは教えられました。聖霊が働く時には、いつでも同じような仕方で働くとは限りません。ですから、私たちの上に聖霊が注がれ、神が私たちのもとを訪れてくださり、私たちがそのことで大いに揺さぶられ新しくされていくときにも、聖書に記されているのと同じような仕方、同じ形でそうなるとは限らないのです。

 今日の箇所を注意して聞きますと、最初のペンテコステを経験した人たちがその経験を言い表す上では、ためらっているような、はっきりと言い表せずに口ごもりながら語っているようなところがあります。例えば、「突然、激しい風が吹いて来るような音が」とありますが、「風の音」とはっきり言わず「風が吹いて来るような音」というのは、つまり「風ではない」と言っているのです。あるいは、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」とありますが、「炎のような舌」というのは「炎でもないし、舌でもない何か」です。
 ですから初めに言いましたように、この記事に言われていることは、「毎年聞いてはいても、分からない」のです。
 それでも語られていることについて幾分かでも近づこうと努力するならば、「舌」と書かれている文字は、別に訳せば「言葉」と訳すことができます。この日、神との出会いを経験し最初の教会の枝々とされた人たちは、「思いもよらなかったような暖かな、愛に溢れた神の言葉に触れる」という経験をしたのかもしれません。
 また「炎のような舌が、一人一人の上にとどまった」と言われていますが、「とどまる」という文字は、「馬や牛の上に鞍を置いて跨る」と訳すことができます。「神の言葉が弟子たち一人一人の上にやって来て、弟子たちの上に鞍を置いて跨った」ということになります。鞍を置かれるとどうなるでしょうか。動物はその御者に従って行動するようになるのです。「これまで弟子たちは、それぞれに自分自身が人生の主人公だと思って好き好きに歩んでいた。しかしそこに聖霊が降り一人一人の上に鞍が置かれた。それからは、神の暖かく燃えている御言葉が弟子たちの主人となった」ということが言い表されているのかもしれません。

 弟子たちは、神が突入してくださり訪れてくださったことによって暖められ慰められ、力を与えられて、「神さまの慈しみがこの世界の上に確かに与えられている。私たちは今、その神さまの御支配のもとに生きる新しい者とされている」ということを知る者となりました。私たちもまた、今日の世界の中で、その同じ神の訪れに出会わされ、神の御支配を受け、そしてそのことを告げ知らせる一人一人とされているのではないでしょうか。
 たとえ今の地上を疫病が覆い、戦争や災害による悲しみが絶え間なくあり、そしてまた人災や無責任な人間の行いによって命が失われるような痛ましいことが繰り返し起こるとしても、私たちが破れの多い欠けた者に過ぎないということをそのような出来事からも、また自分自身の生活の中から思わされるとしても、しかしそれでもなお、神の慈しみがこの世界に生きている一人一人の上に注がれており、「あなたは今、自分の駄目さ加減や自分の惨めさの中で諦めて滅んでいくのではなくて、わたしがあなたの主なのだ」と神が呼びかけてくださる中で、新しい生活を始めるようにと招かれていることを覚えたいのです。

 神が御自身の暖かな光で私たちを照らしてくださっている、その神の輝きを、私たちはそれぞれ自分の身に照り返しながら生きる者とされたいと願います。そして、そのことを感謝して受け止め、日々の生活の中で、「神さまがわたしを顧みてくださった」ということを現して生きる者とされたいと願います。
 家庭の交わり、近隣との交わりにおいても、できれば暖かな言葉を語り、そしてまた困難な事情にある方々を覚えて祈り、何か自分にできるようなことがあるならば互いに助け合い、喜び合う者とされたいと願うのです。幼い子供たちに対しては、心から大事に思いながら一人一人に寄り添い育み、若い人たちに対しては、将来がまだ見えてこない不安と恐れの中に生きていることを理解して一人一人のために祈り、そして高齢の方々に対しても神の慈しみが確かに一人一人の上にあるのだということを信じ、またそのことを言葉と行いをもって伝える者とされたいと願います。

 「最初のペンテコステの日に弟子たちのもとに踏み込んで来られた神さまが、今日も私たちすべての者の命を支えてくださり、ここで生きる者としてくださっている」ことを覚え、感謝し、なお喜んで仕える幸いな者とされたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。

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